この冬の休暇で、永平寺を訪ねました。
私はこの古い寺が大好きで、以前、背中にでっかく「超我」と書いてある、誰が着るんやこんな面白いTシャツ、なシロモノを買い求め、時々着ているほどなのですが、
言わずと知れた曹洞宗、禅の宗派の総本山です。
(ちょっとガメさんの文体に似てしまった)
ひとつひとつに意味が隠されているのは、日本で古いところに行けば必ずあることですが、
ここのすごいところは、雲水さんたちによるメンテナンスが、如何にこの780年続く山を維持してきたか、です。
花粉症になれば恨めしく感じる、日本のどこにでもある杉林の、ジオラマみたいな杉の木とは違う、
デカくなりすぎて雪吊りができなくなって、毎年の雪の重みで枝が傘のようにしなっている、「自分で生きている杉の木」を見れば、
人間というのは、愚かだけど、愚かだからすごいなぁと、私なんかは感じるわけです。
ひととおり、磨かれすぎてスリッパが脱げる木板の床をそろりそろりと歩いて七堂伽藍を見て回り、最後に玄関に向かう大きな廊下に、
道元禅師の言葉を今風にアレンジして、なんかAIが作ったような小綺麗な写真を添えたポスターが並んでいました。
そのキャッチーな教えを見上げていた、とある見知らぬ方が、少し大きな声で、こんなことを言ったのです。
「この言葉こそが、一番大事なことだよね。これさえ読めばいい。いままで見てきたことはなんの意味もない」
まるで学校の先生のように、キッパリと言い切っていました。
まあ、寒かったしな、と思いつつ無視しようとしたのですが、ウチの素直な娘が、この先生のようなヒトの言葉を信じてしまってはいけない、と気が付きました。
しばらく進んで、その学校の先生から離れたところで、わたしはこんな風にムスメに言いました。
「かあちゃんはね、あそこに並んでいた言葉のどれよりも、この古いお寺や、古い杉の木があること、そこからなにを感じるかが、ずっと大事だと思ってる。
本当のことを、言葉にこめることは、本当に難しいから。」
そして、お参りを終わって、お寺を出る時にも、いいました。
大事なことだからもう一度言うよ。
言葉に、ホンモノを詰め込むことは、本当に難しい。それよりも、ホンモノを見て直接感じることの方が、何倍も、何百倍もだいじだと、かあちゃんは思うよ。
そう話しました。
するとムスメは、
「じゃあ、今のかあちゃんの言葉も、信じなくていいの?」
というので、
「あんたがこの言葉を本当だと感じないなら、信じなくていい」
と返すと、
「わかった。信じる」
と小さく言ったのでした。
これでもう信じちゃうのかよ、相変わらずチョロくて心配だな、と思っていたところで、すかさずオットの人が、「まあ何でもいいよ」と茶化して、
みんなでじゃれ合いながら、手打ちそばのお店に駆け込んだのでした。
全体主義も、言葉で伝わります。それが態度になり、習慣にスタックされて、私たちの心の中に積み上がっている。
そんなことを思い出しました。