「一部のルール違反する日本人」は県民に不安を与えないのかねえ?このバカの言うことはゴミ箱にポイするとして、
しかし「共生社会」という言葉が、なぜこんなにも空疎に聞こえるのか
「共生社会」という言葉を聞くたびに、僕は吐き気を覚える。
なぜなら、社会というものは、そもそも共生を前提にしていなければ成立しないはずだからだ。
人は一人では生きていけない。
僕は料理ができる。介護もできる。牛の搾乳だって、今はお手のものだ。
でも、英語は話せない。制度は作れない。家は建てられないし、裁縫もできなければ、米も作れない。
一人では、生きていくために必要なことのほとんどができない。
人はそれぞれ、できることとできないことを抱えながら、互いに補い合うことでしか生きられない。
服を裁縫する人がいて、料理をする人がいて、家を建てる人がいて、制度を考える人がいて、言葉を翻訳する人がいる。
なかには、そういったことを、生まれつきの身体の事情でやりたくてもできない人だっている。
さらに言えば、その社会ですら、人間の外にある「ルール」、つまり、地球環境や自然の制約の中で、かろうじて成り立っている。
僕たちは、自然に逆らって生きているのではなく、自然の許容の中で、身を寄せ合って生きているに過ぎない。
そう考えると、「共生社会を目指します」という言葉には、どうにも引っかかりを覚える。
共生は、目指すものではなく、前提ではないのか。
呼吸をしなければ死ぬのと同じように、
共に生きることができなければ、社会は即座に死する。
じゃあなぜ、ことさら「共生」が掲げられるのだろう。
それはおそらく「共生」などという言葉を、深く考えてこなかったんだろう。
あるいは、「共生」を壊している人々が、その責任を問われたくないからだ。
今、我々に与えられる情報は「壊れてしまった日本語」で、説明は不足し、翻訳は恣意的に書き換えられ、それでも「ルールは守れ」と言われる。
そうした社会の不備を直さない代わりに、「共生社会」というさも美しい言葉が貼り付けられる。
その言葉は、努力しているように見せるための看板であり、同時に、「外国人政策」という言葉に代表されるように「適応できない側」に問題があるかのような視線を生み出す。
だが、本来問われるべきなのは、「適応できない個人」ではない。
説明しない社会、拙い行政、歩み寄らない多数派の側だ。
共生とは、強い者が弱い者に「合わせろ」と命じることではない。
お互いが不完全であることを認め、手を取り合い続けることだ。
誰もが、何かができて、何かができない。
だから助け合う。
それ以外に、人が生きる道はない。
それにもかかわらず、「共生社会」という言葉が声高に叫ばれるとき、「できない人は『自己責任』で取り残されても仕方がない」
という冷たい視線が混じる。
社会が社会である限り、共生は前提だ。
それを改めて掲げなければならないとしたら、すでに誰かが、社会の外に追い出されているということなのだと思う。
そして本当に必要なのは、そんなスローガンではない。
足りない説明を補い、届かない言葉を翻訳し、「一人では生きられない」という人間の前提を、制度の側が引き受けることだ。
「共生社会」は、声高に宣言するものではないと僕は思う。
黙って、当たり前のように、支え合える社会。
そんな社会がいいなあ。