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>(1)「絶対存在としての神」、言語容積全体の外側に存在するものとしての神という仮定が不必要になった

>(2)AIには人間に適用してきた「意識」という概念を適用しても、あまり意味がない

>(3)言語は完全なフリースタイルの状態に置かれると、意味の錐揉み状態におちいって機能しなくなる

 卒読のかぎりで、上の三つの文が、目にとまって、あ、これは大事なところだ、と意識されました。順不同で、思いついたことを記しておきます。

  「意識」は、「内」に感じられる何かなので、「外」と対比しないと、輪郭を与えることができない。意識の外は、言語の外であり、言語の外にあるのは、意識(即ち言語)のとどかない存在、意識と関係せずにそれだけで在るもの、絶対的なものです。つまり、神。

 AIに「意識」という概念を適用しても意味がないのは、第一には、AIが身体をもたず、自分の身体と、その外、という生き物(植物を含む)のすべてに当てはまる「内と外」を持つ能力がないことに起因する。

 第二には、AIが言語をわれわれ人間とは違う仕方で扱っていることに起因する。AIは、言語の〝全体〟を扱うという状態に近づいているようだ。恐らくこのゆえに、あるいはまた、第一に挙げたAIには「身体の内と外がない」ということと相俟って、AIの言語には〝その外側〟という概念が適用できない。ちょうど、宇宙の〝全体〟に対しては、〝その外側〟という概念が適用できないのと似ている。

 AIは言語の全体を扱うことが可能のように見え、かつ、全体には外側がないことの帰結として、AIはおのれだけがある状態(つまり、「完全なフリースタイルの状態」 )に置かれても、人間の言語使用とちがって、「意味の錐揉み状態」に陥らなくてすむ。

  「意味の錐揉み状態」ってなんだろう。言語使用に対する〝外側〟からの介入と制約がなくなって、意味をなさない(即ち、外なるなにも指し示さず、内なるなにも表出しない)記号列が出力される状態だと考えておこう。

 AIの場合、意味をなさない記号列の出力は、言語の外側の介入によってではなく、記号のつながりにかんする確率計算で排除される。すると、AIは、内も外もない状態で、一見すると、まるで、あたかも意味がある(外または内のなにかと結びつく)かのような言語を生み出しつづけることが可能になる。

 人間は、自然世界に生きる存在として、身体の内と外をそなえている。また、社会的世界に生きる存在として、心の内と外(自己意識と、意識の外部〔神と無意識〕 )をそなえている。

 内と外をそなえた人間が、内と外をもたないAIの言語を、人間の発話と同じものとして受け入れることは、人間にとっての意味(外または内のなにかと結びつくこと)を否定する行ないかもしれない。

 以上、概念の足し算引き算をしてみただけですけど、感想というか、解釈というか、とにかく、ぼくが思ったことです。

雑な日本語日記18 いま何をなすべきか
Sep 8
at
12:39 AM

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